今日はいつもの直父ではありません。
モトクロスには一切関係ない廃道のハナシなのでキョーミのない方はここでバイバイ。
この地図を見なければ、この探索をする気にはなれなかったと思う。
明治22年測量 同25年発行
大日本帝國陸軍陸地測量部 假製二万分一地形図 沓掛村
日文研のデータベースから探し出した。
第3代京都府知事 北垣国道の命により開墾された京都宮津間車道の最初の難所、老ノ坂峠。
小畑川沿いの急峻な渓谷の谷底をトレースしトンネルをもって峠越えする新道
拾遺都名所図会に描かれたままの風情を残していたであろう、峠付近に明治初期に施工された長い切り下げのある旧道。
この地図には、その新旧ふたつの山陰道・老ノ坂峠が明確に記されている。(上記リンク参照)
今回の探索は春休み最後の日になおとの沓掛城の探索ついでに行った老ノ坂峠探索の続編である。
目的は旧老ノ坂峠 京都側部分の遺構の探索。今回はウチのライダーさんは探索の邪魔になるので直父の単独行である。
上図は現地形に旧道(ピンク色の線)を書き込んだもの
旧道は車道として整備活用されていた訳ではなく、現代の感覚でいえばタダの登山道かハイキング道に近い。また、歴代の航空写真を見ても、京都霊園、西部クリーンセンター、京都縦貫道造成による地形の改変部にモロに被っているので遺構の存在は極めて低い。
従って最も遺構の存在している可能性の高い西部クリーンセンター東南側斜面に限定して探索を実施した。
○○○園の門をくぐり、探索の取り付き地点から旧老ノ坂峠があった地点(西部クリーンセンター)を望むが、クリーンセンター(峠の頂上)はココからは見えない。
余計なコトもビッシリ書き込まれてる京都市都市計画図には何となくそれらしい道が(もちろん破線)が描かれてるのでそれをトレースし始めるが、10メートルほど分け入って「やっぱ帰ろう…」と思った。
辺りは一面の「イバラ」のブッシュである。
獣道となってるのか、イバラのブッシュがトンネル状に続いている。
何個か我慢して引っ掛かりながらも通過したが、もーだめ。
向こうが見えない真っ暗のブッシュのトンネルにぶち当たって、左の斜面を高巻きに逃げる。
旧道のルート的にもコレが正しそう。
この斜面は旧道が有ったはずの谷筋の斜面である。道幅は多分1間程度か、いくら広くても1.5間までであろう。
左右に遺構を探しつつ展開しながらゆっくりと登っていくと、そうかな?これかな?と思えるようなものも無いことはないが、踏み跡が途絶えて久しい道はもはや道の姿ではなくなる。
そうこうするうちに有りました。出くわしました。
無情にも谷を横断する1m位の高さの法面保護のためのコンクリートの堤状構造物(沈・・・
やはり航空写真はウソはつかない。谷の斜面を整備したようで、やっぱり元の地形なんてありゃせんて(泣
万に一つ、部分的に残っていてもブッシュでまるで分からず…
なんやら古びた墓石?などが積み上げてあったが所詮は不法投棄であろう。
クリーンセンタ職員に見つからないようにして敷地ギリギリの峠頂上付近まで登ってみた。本来切り下げが有った場所である。
存外傾斜はきつくないが、車道は造れない斜度と谷の狭さである。特に後者の要因は大きく、車道としての選択は、やはり現R9の小畑川沿いしかなかったわけだ。
再びイバラをかき分けて取り付き部分に戻る。園内周回バスのオッサンに変な目で見られたので、トットと○○○園からトンズラする。
さて、このまま帰るのも何なので、今日の探索の第2目標に向かう。現道のR9の路盤改良のため廃道部分の探索である。
地図上では残っていそうな部分は老ノ坂峠の京都側取り付き付近の3箇所。
そのうちの京都市都市計画図にバッチリ載ってる下り車線側(亀岡→京都車線)の近接した2箇所を探索。
路盤改良はコーナーの曲率を大きくし、出来るだけストレート形状にして交通の円滑化、事故防止などの目的であろうことが見て取れる。
峠側の一箇所目。ココは山仕事?の駐車場として使われてる時があるが、立ち入り禁止とな。奥に不法投棄のブロックなんかがあるが、手前側は下草もなく旧道が現役だった頃の雰囲気が良く出てると思う。
100mほど奥に進むと左側から山からの川の流れが道を横切る。長さ3mぐらいの橋は既に撤去されてるが、コンクリート製の橋台は両端に残っている。
橋の手前から小畑川に沿うように右側にカーブしてゆき、現道に接続する。無論ガードレールで塞がれている。
川への法面は現道付近は大きいコンクリートブロックであるが、少し旧道部分にはいるとかなり古そうな乱積みの石垣。実に雰囲気がよい。
河原に降りて、石垣と旧道を見あげるとなんともしっとりとした情景であるコトよ。大きい自然石の回りを石垣が囲う部分もある。
京都側の接続部の山側法面にも法面強化のためか部分的な石垣が認められる。
あんなトコで何しとんねん?てな現道をブンブン通る車からの視線が気になるが、200m程先の次のポイントに移動。
現道は切り下げっぽく左側に山裾の斜面が残ってるが、その斜面の外側に旧道が隠れている。
ほぼ90゚ターンの旧道部分。峠小僧に近かった直父にはこの方が楽しそうで好感が持てる。先の探索部分と接合してた時分は3連S字コーナで、さぞかし楽しい「コース」であったろうに(笑
こちら側は小畑川との法面には石垣などはなく自然のママ。出口付近には不法投棄あろう碍子が散乱してた。先ほどの箇所と同じく、道幅は旧道にしては幅広く感ずる。
さて、この路盤改良はいつ実施されたのか?
よくお世話になってる1/25000地形図の時系列比較が出来る「
今昔マップ2」で当該箇所を比較してみると大きく道筋が大きく変化しているのは「1954-1956」と「1961-1964」の間。直父が生まれるちょっと前の時代のお話しとなる。
ただし1922~1956年までの地形図に地形の変化があまり見られないので、同じ測量図を更新しただけのモノのようにも感ずるので、あまりアテにはならない。
廃道部分の橋台はコンクリート製であったが、路盤そのものは舗装されていなかった。もっとも改良時にアスファルトを剥がしたのかも知れないが、ガードレールやそれに類する縁石の痕跡すらない状況や、石垣の状態をみれば、かなり古いような感触を持つ。
と、書いた所で航空写真で確認してみた。一番古いものが1947年10月米軍撮影のもの。
映ってる!しかもこの撮影時点で廃道化してるように見える。
とすれば一箇所目の乱積みの石垣の古さも納得の行くところ。
結局のところ明治道がその後の施されたであろう改修を経て、路盤改良により廃道化した時期は今までに収集した資料では多分1947年以前と言うこと以外は不明。
国道事務所に問い合わせのメールを送ったけど、戦前・戦中のことは分からんだろね~
PS
国道事務所から回答のメールが来たが、路盤改良の歴史についてはさっぱり不明。
峠を丹波側に越えた亀岡市史や篠村史を調べてみたが、松風洞・和風洞という老ノ坂峠のトンネルについての記述は豊富だが、峠の路盤状況については記述を見つけられなかった。
また、峠のことに関する実地調査をさる筋から咎められ、直父もそれに納得したので、これ以上の調査は実施しないことにする。
古代より京都(奈良)-丹波間の交通の要衝であった彼の地。その歴史の深さゆえ「禍々しさ」も相当のモノ…ある意味ひ弱い直父がこれ以上深入りすると、どうも取り返しのつかないコトになるようだ。クワバラ・クワバラ…
新旧老ノ坂峠調査は未完のまま、これにて了とす。