「
戦死した伯父には3つお墓がある」
ひとつは当然ながら実家の墓、二つ目は駅前の軍人墓地(駅前再開発で若干移転した)
そして三つ目は旧真田山陸軍墓地、と親からは聞かされていた。
その墓地に母と一度だが、行った記憶が微かにある。墓地での記憶は皆無であることから、もしかしたら行き着けていないのかもしれない。天王寺動物園へ行くついでか、行った後に寄ったか? 記憶が定かではないので小学校の低学年ぐらいの事かもしれない。尋ねようにも母も鬼籍に入っているので叶わない。自分で墓地を尋ね、墓碑を探す以外にない。
この真田山旧陸軍墓地は
コチラ と
コチラ に詳しい。 同じ団体なのか、異なる団体なのかは存じ上げていない。
西南戦争辺りからの戦死者を祀っている軍人墓地で、5000基以上の墓碑がある。しかしながら多くの戦死者が出た日中・太平洋戦争の8200余(43000余という表記もある)の遺骨等は納骨堂に納められている。
その唯一の例外が戦後、出身村遺族会により建立された、伯父のものを含む日中・太平洋戦争での戦死者墓碑169基なのだ。
ネットでそこまで調べて、ようやく「伯父の墓は3つある」の意味が本当に理解出来た。
納骨堂にではなく個人の墓碑がある。そこに伯父の魂は無いであろうが、これは一度訪れなければならないと強く思った。
では、遺族会が戦争が終わった1948年にこの墓地に墓碑を何故建立したのか…
それはネットでは答えは出てこなかったのだが、幸いにも文献が大阪府立図書館にある。今すぐは出来ないだろうけど、資料は逃げない。
(導入部、長過ぎや
さて下痢腹を抱えて電車に乗るが、往路はほぼ 「関西私鉄・JR駅便めぐり」 と化す(笑いごっちゃない
墓地の最寄り駅でようやく落ち着いて来たが、さてこの駅「玉造駅」であるが、駅舎の上屋の支柱と架線支柱を兼ねてる支柱が古レールときた!
古レールを再利用した駅は世にゴマンとあるのだが、まさか大阪環状線に残ってるとは思ってもみなかった(直父は大阪市出身では無いので市内の事情には極めて疎い
往復、環状線の東約1/4(大阪-玉造間)を利用したわけだが、復路によくよく見れば、古レール構造物が多い。桜ノ宮駅の上屋の支柱は逸品であり、またホーム端からみる白い淀川橋梁もなかなか萌え成分が多い。どおりで往路で撮り鉄クンが7・8人群れてたワケだ…
で、この古レールには刻印(鋳出し文字)があるわけでして、「 BARROW STEEL 1897 O I …あと不明 」とある。 ま、単純に考えて、英国製の116年モン、ということですか…
大阪-玉造間は明治28年開通とあるので、当時のものでしょうね。もちろん再利用はずっと後のこと (高架化・電化工事は昭和7年から
大阪環状線の概略は
ココ が良いかな?
わぉ!環状線として開業したのは直父が生まれた昭和36年…
(寄り道はこのぐらいにしといて、本題の墓参りでござい
墓地の所在は天王寺区の真田山と言った方が分かり良いか。東京に較べると大阪はあまり丘陵がないように思えるが、いわゆる上町台地なので少しせり上がった所にある。
もちろん大阪で「真田」なので、かの真田幸村所縁の地であるが、墓地は正しくは真田山ではなくお隣の宰相山にある。宰相山公園や真田山小学校が隣接している。
大木が生い茂り、幸いにも木陰となるので駅からの道中で吹き出た汗が、ひんやりと乾いてゆく。
終戦記念日だが場内には人は殆ど居ない… 1時間ばかり居たが、出会った人は十指に満たない。
着いていきなり「真田幸村の墓は何処にあるんですか!?」と素っ頓狂なおっさん(直父より若い)に尋ねられたが知る由もなし、アンタはココが陸軍墓地だと分かってんのか??
かつて陸軍の直轄地であったことを示す石柱の基部には煉瓦積みの塀がみえる。平の部分にも刻印有りの煉瓦も(萌え成分補給
いったい何なのでしょうかね、この飄々とした風景は… 普通の墓地・霊園とは確実に違うこの雰囲気、なんとも言いようがない空気が流れる。一見、重いような、それでいて軽やかに流れてゆく空気
これが歴史の持つ重みか…
さて、伯父の墓碑を探さなくてはならない。遺族会建立の墓碑はそれと分かる所に有り、169基の墓碑が2列に、そして向かい合って整然と並んでいる。墓碑銘には黒く墨が入れられているが全てではない。
まず片列を凝視して見回るが見つからない。墨の入ってないものは一瞥では判読不可能で、こりゃ時間が掛かるなと思ってたら、最後の方にありました。
陸軍上等兵殿 ちゃんと墨入れされていました。
思いがけず墓碑には花と線香を添えられるようになっていたので、駅の方に戻って仏花を買って来た。
墓碑の廻りは一応草苅機で除草されているが、細かい草は残っているので引っこ抜こうとするが、笹らしくてやたら固い。鋏でも持ってくれば良かった。マジで手を切りそうだったので程々にしておく。
バケツや柄杓、水場もあるので墓参りの体裁は整う。実際に特定の墓を参った跡はほんのひとつかふたつで殆ど無かった。墓碑が作られたそれぞれの年代を考えると、それは無理からぬ事
一番新しいこの遺族会建立の169基ですら、参った形跡はなかった。
手を合わせて、伯父達が戦争で亡くなる最後の日本人になることを願い、かつ誓う。
恐らく、ちーやなお達の世代が実際の戦争体験者から直接話しを聴く最後の世代となるであろう。
十年後に戦争体験者の何人の方が残っているだろうか。
しかし伝えることを止めてはならない。何処かの誰かがどういう形にせよ、事を伝えなければならないものだろう。その努力を私達は惜しんではならない。
黒々と墨入れされていた墓碑、おそらく貴男の仕業ですね、父さん…
(公務員としての最後の職場が森ノ宮だったからね きっと立ち寄ってたんだ
伯父の墓碑を参ったのだが、結局は父母のことを想ってしまったな。まぁ、お盆だからね
電車の中、mp3プレーヤでずっと聴いていたのは、先般亡くなった笑福亭松喬師の落語6席「佐々木裁き」「首提灯」「質屋蔵」「禁酒関所」「牛ほめ」「天王寺詣り」 追善となりましたか
これまたお盆らしい…
JR玉造と阪急梅田で個室に籠もってから帰宅す(爆